2007年07月28日
執着と愛着
昨日、17年間わたしを各地へと運んでくれた愛車と別れました。
トヨタ『チェイサー』平成2年式GX−81
長年付き合ったこともあり、たかが車とはいえ別れが辛かった。
車を引き取りに来たディーラーの人が「大事に乗ってこられましたから、それだけに愛着があったでしょうね。」と言った。
愛着・・・たしかにこの車を大切にしてきたつもりです。
しかし本当に愛着を持って、この車と接してきたのだろうか?
この車を買ったのは25歳のとき、和歌山県の田辺市に赴任していたときでした。
この時期は、とても忙しく、残業は毎月100時間以上にもなり、残業手当が基本給を上回るという異常な状態が続きました。
経済的に不自由することがなかったので、車を手に入れる前は、ひたすらパチンコに明け暮れる日々。
車が来てからは仕事が終わったあと、一人で白浜方面へドライブして楽しんでいました。
やがて地元のカーショップに出入りするようになり、いろんなものを買っては車に装備し「もっとかっこよく!もっと個性的に!」と、どんどん車にお金をかけることになります。
アルミホイールとタイヤのセットが50万円強。
当時はまだ珍しかったDSP回路を内蔵したカーコンポが約45万円。
そのほかにも細かいものをたくさん装備して、いったいどれだけ車にお金を使ったことか。
当時を振り返ってみると、ここまで車にお金をかけるのは本当にバカみたいに思いますが、そのころは車をグレードアップすることに必死。
「もったいない」なんて思いはいっさいありません。
わたしの車に対する思いは常に「もっとかっこよく!もっと個性的に!」でした。
この「もっとかっこよく!もっと個性的に!」というのは、じつは自分の欠点をカバーしようとする願望だったのではなかったか。
自分自身では実現できないことを、この車に託していたように思う。
このような思いが込められた車に対して、本当に『愛着』があったと言えるだろうか?
『愛着』というより、この場合は『執着』という言葉が当てはまります。
その証拠に、この車と別れる時のなんとも言えない辛さや寂しさは、まるで自分自身の一部をもぎ取られたかのような心境でした。
そう、この車はわたしの『アイデンティティ』の一部になっていたのですね。
自分の欠点をカバーするために持ち続けた車。
自分の願望や欲望をたくさん乗せた車。
その車がディーラーの人の手によって引き取られて行きました。
執着していたものを手放すことは、とても辛いことです。
しかし、執着していたものを手放すことによって、新しい何かをつかむことができるのだと思う。
車のような物に限らず、人であれ、思いであれ、人は知らず知らずのうちに執着します。
いま自分が執着しているものは何なのか?
その執着しているものは本当に必要なものなのか?
いまいちど、あたりを見回してみよう。
なにはともあれ、この車はたくさんの思い出を残してくれました。
長い間お疲れ様!本当にありがとう!
by Fujii



